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ジュデイ感想

  • 藤野茂樹
  • E-mail
  • 2023/02/11 (Sat) 01:16:50
ジュディ感想  藤野

外国のスターの伝記映画はかなりあるが、この映画もよく知っている人物であるため、素直に物語に入れ、感情移入もできた。
ただ、挿入歌で自分が知っているのは、お粗末ですが最後の「虹を超えて」だけだった。

1. 印象に残った所
A、「子供をステージに立たせて、虚構の世界に入れたくない‥‥‥」とジュディが言うが、娘のライザミネリはまたその世界に入っていった。ジュディがいかに苦しんでいたかがわかるのに、娘はどう考えてまたその世界に入っていったのか知りたいものです。
B、今まで彼女の前には彼女で一儲けしようという人々しか現れなかった。ところがロンドン公演の最中に、名もないゲイのファンに自宅に招かれた。食事も粗末なものだったが、この一晩の交流こそが彼女の望んでいたものだった。
C、最後舞台で歌えなくなった時に、同性愛者の二人が歌い始め、それが全員に広がったこと。感動的だったが、その後この観客と一体になる方法は日本では歌声酒場でよく使われるパターンとなった。なので、映画が作られた時は大感動だっただろうが、現代ではちょっと古い印象を持ってしまった。

2. 脚本について
現在と過去を行ったり来たりしている。肉体的にも精神的にもコントロールされた青春時代と、大人になってから利用しようと群がる人間に振り回され、対応が出来ずに薬物に侵されて零落していく姿を往復して作られていた。このような構成がジュディの不幸をより強調していた。
例えばロンドン公演での不祥事の際には、少女時代にルイス・B・メイヤーにしかられたことを思い出す。そのエピソードのはさみ方は、PTSDのようである。
こういう場面は食事や食物(ケーキ)、等にもあって、マインドコントロールされたジュディが抜けられなくて苦しむ姿がよく分かる。

3. ジュディの生涯について
うつ病との闘い。不眠症、体調不良、不安障害があって、薬を多用し、少しでも気持ちを安定させようと結婚を繰り返す。ハリウッドのスターにはよくある話だが、彼女もその典型だったようだ。
また、うつ病特有の現象だが、認知のゆがみがあり、適切な判断ができていない。子供の幸福は自分と共に暮らすことと信じて疑わず、ひとりロンドンへ旅立ち公演を続け、ある日電話で、娘が父親と故郷で静かに暮らしたいと言われ愕然とする。そして益々孤独になり、薬が手放せなくなっていく。可哀そうな人生だったのですね。

11月例会新作テーマ「ムーンライト」

  • 石野夏実
  • 2022/09/21 (Wed) 17:57:28
私が大好きな映画「ラ・ラ・ランド」がアカデミー賞の作品賞を獲れなかったのは、実はこの「ムーンライト」が作品賞を受賞したからだったということもあまり知らなかった。
話題作を観るのは好きなほうではあるが、この作品は何故だか観ることもなく今日まで来ていた。そして内容もほとんど知らなかった。
ところがである。。。観始めて一気にこの映画の世界に入り込んだ。
最初のカメラの動きがサークルショットで、被写体の周りをぐるぐる回り、すぐに観客をトリコにする。もちろん、このような撮り方の映画は、過去にいくつもあるのだろうけれど、ダラダラした映画じゃあないよという告知のようなものだと感じた。この映画ができるまでの拾い↓Wiki+追記
2016年、バリー・ジェンキンスは、(原案者)タレル・アルバン・マクレイニーと脚本を共著し、8年ぶりの新作映画『ムーンライト』を監督した。映画はマクレイニー・ジェンキンス双方の出身地だったマイアミのリバティ・シティで撮影され、2016年9月にテルライド映画祭で初上映されると、批評家に絶賛され、様々な映画賞を受賞した。『ニューヨークタイムズ』のA、O、スコットは「ムーンンライト」は黒人の身体の気高さ、美しさ、脆さ、そして黒人の生命の存在・肉体的問題を強調している」と述べた。『バラエティ』誌では、「 (サウスフロリダでの幼少期を活き活きと描いたバリー・ジェンキンスの描写は、彼の人生における3つのステージを再考するもので、現在のアフリカ系アメリカ人の経験について豊かな洞察を提供してくる」と書かれた。『アトランティック』誌のデイヴィッド・シムズは、「他の偉大な映画と同じように、『ムーンライト』は明確かつ徹底的だ。アイデンティティに関する物語だ——登場人物について考えたことを、観客によく考えるようにも求める、聡明で骨の折れる仕事でもある」と述べた。
作品は多くの映画賞を受賞し、その中にはゴールデングローブ賞 映画部門 作品賞 (ドラマ部門)や、アカデミー作品賞も含まれている。ジェンキンス・マクレイニーはアカデミー脚色賞も受賞したほか、第89回アカデミー賞ではアカデミー監督賞を含めた8部門にノミネートを受けた。
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あらすじ
この映画はシャロンというアフリカ系黒人の ①<リトル>と呼ばれていた少年期 ②<シャロン>本名でのティーンエジャー期 ③<ブラック>と呼ばれる大人になったシャロン=の3部作で成っている。インパクトが強いこの映画のポスターは、3つの時期の顔の合成だ。また、それぞれの部の会話の中で、心に響く言葉が出てくる。
舞台はマイアミの黒人たちが多く住むリバティシティと呼ばれる危険な地域。
①大人しく内気な少年シャロンは、いつものように下校時にいじめっ子たちに追いかけられ、一目散に廃屋に逃げ込んだ。その様子を見ていたファンと呼ばれる麻薬のディーラー(仲買人)は、シャロンを恋人テレサと暮らす家に連れて帰り食事をさせ話をしようとするが、名前しか言わない。ひと晩泊めて自宅に送り、母親のポーラに引き渡す。シャロンのことをファンはとてもかわいがりシャロンも次第に心を開いていく。マイアミだからビーチが近い。ファンはシャロンを海に連れて行き泳ぎ方を教える。ファンに抱えられたシャロンはまるで赤ちゃんのようだ。ファンはシャロンに言う「自分の将来のことは自分で決めろ。他の誰にも決めさせるな」と。学校でひとりだけシャロンを気にかけ話しかけてくれる友達がいる。名前はケヴィンだ。ケヴィンは、体はそれほど大きくないが運動能力も高く喧嘩も強そうだ。
②高校生になったャロン。まだいじめられている。母親は麻薬中毒がひどくなっている。居場所のないシャロンは、ファンが死んでしまったテレサの家へ行き優しく迎えられる。※何故ファンが死んだのかは、映画の中では語られていない。執拗にシャロンをいじめるレゲエ髪の同級生がいる。学校帰りにまたいじめられ電車に乗ってビーチに行く。砂浜にいるとケヴィンが現れる。夜の海を見ながらのふたりの会話。ケヴィンは目をつむり言う「潮風が気持ちいい。気持ちよくて泣きたくなるだろ?」
シャロン「泣くの?」
ケヴィン「いや泣きたいだけ。おまえは何に泣く?」
シャロン「泣きすぎて自分が水滴になりそうだ」
ケヴィン「海に飛び込みたいか?この辺の連中は海でかなしみを紛らす」
ふたりの心は通じ合いキスをする・・・
翌日、レゲエ髪のいじめ同級生がケヴィンにシャロンを殴るよう言い渡す。
ケヴィンのパンチはシャロンを倒す。起き上がらなけらばすぐ終わるから起きるなというケヴィンの言葉がシャロンには届かない。シャロンは殴られても起き上がる。ボコボコだ。シャロンは決意した。翌日学校でレゲエ髪を椅子でぶちのめし警察に逮捕された。
③大人になったシャロンは「ブラック」と呼ばれている。大好きだったファンと同じような車に乗り、頭にはピチッとした黒布の海賊巻き、仕事も麻薬のディーラーだ。体を鍛えグリルの金歯を装着し強さを誇張している。ある日、ケヴィンから電話が入る。テレサから電話番号を聞いてかけていると。故郷を出てかなりの年月がたっていた。先ず施設で暮らす母に会いに行き和解する。その足でダイナーで料理人(オーナー?店長?)として働いているケヴィンに会う。あの弱々しかったシャロンが頑強な大男になっていた。シャロンに似た客がかけたジュークボックスの音楽でシャロンを思い出したと言って電話してきたケヴィン。その曲名はバーバラ・ルイスの「ハロー・ストレンジャー」だ。
※歌詞=ハロ~懐かしい恋人 嬉しいわ帰ってきたのね 何年ぶりかしら 最後に会ったのは 遥か遠い昔 とても嬉しい あなたが顔を見せてくれて あの頃が懐かしい~♪
ケヴィン手作りのお薦めの特製を食べ(キャビアてんこ盛り)ワインを何本も明け、閉店の戸締りをしてバスで帰るというケヴィンを車で家まで送っていき、家に入り最後はふたりで仲良く寄り添い終わる。ラストの絵は、少年時代の幼いシャロンがブルーの月明りの海辺でこちらを振り返る姿だ。
登場人物が全員、黒人だった。一番印象に残るのは少年時代のシャロンだ。悲しみを湛えながらも冷静さも併せ持つ凝視する大きな目と何も発しない太い唇。
ファン役のマハーシャラ・アリはこの作品でアカデミー賞助演男優賞を獲得。2年後にもういちど「グリーンブック」で同賞を授賞している。今一番注目されている俳優だ。とてもいい目をしている。ブラックと呼ばれる大人になってからのシャロンを演じたトレヴァンテ・ローズも目がいい。母親ポーラ役のナオミ・ハリスもテレサ役のジャネール・モネイもよかった。

誰が誰を愛しても私は驚かないし、個人の意思を尊重する。恋愛だけでなく男とか女とかに分ける必要がない仕事も事柄も多い。この映画をひとりでも多くの人が観るといいと思う。麻薬を売らなければ生活できない人が減るように、麻薬の中毒になる人が減るようにと願わずにはいられない。シェフになってちゃんと生活しているケヴィンは偉いと思った。
テーマ:①この映画を観て何を一番感じましたか。テーマは何だと思いますか。
    ②ファンは、どうしてシャロンを大切にするのでしょうか。
    ③気に入った俳優はいましたか。

「サムライ」を観て

  • 山口愛理
  • 2022/08/28 (Sun) 11:35:41
『サムライ』1967年フランス 原題/Le Samurai監督/ジャン=ピエール・メルヴィル
アラン・ドロン主演のフレンチ・ノワールの傑作。薄汚れたこの時代のパリが、ある意味たまらなく美しい。
冒頭、『武士道』からの引用「侍ほど深い孤独の中にいる者はいない。おそらくそれは密林の虎以上だ」の文言が流れる。サムライを意識させるのはここだけ。殺風景な部屋に一羽の小鳥の声だけが聴こえる。誰もいないのかと思ったらベッドから細い煙が。横たわっていたアラン・ドロンが煙草をくゆらせていたのだ。孤独な殺し屋の、つかの間の休息を感じさせる長い印象的なオープニング。
そして「仕事」に出かける前に身支度を整えるドロンの所作の美しさ。スーツの上にベージュのトレンチ・コートを羽織りベルトをキュッと結び、グレーの中折れ帽を目深にかぶって、つばの淵を手でシュッと一回なぞる。これがサムライの凛とした身支度と重なるのだろうか、映像的にパルフェ!完璧だ。
殺し屋のドロンは、手違いから警察と組織の両方に追われることになり、知恵と体力を駆使しながら、警察から逃れ組織への復讐を果たしていく。警察を相手にした地下鉄での逃亡シーンは、その後の色々な映画に影響を与えたらしいが、緊張感とスピード感が素晴らしい。そして盛り上がった末のラストシーンのあっけなさ。これぞフレンチ・ノワールだ。
ストーリーそのものがどうこうというよりも、ドロンの所作と風貌の美しさ、そして無駄のない乾いた映像美を堪能する映画。『太陽がいっぱい』『山猫』などの芸術的名作や、『あの胸にもういちど』『栗色のマッドレー』などの恋愛ものなど、何を演じても絵になるドロンだが、フィルム・ノワール(犯罪映画)のドロンもまた格別だ。
女性遍歴の多かったドロンが唯一、籍を入れた妻ナタリー・ドロンが高級娼婦役で共演している。ちなみに、演技に目覚めた彼女が女優の道に邁進したくなったことが原因で、後に離婚することになる。彼女は生涯ドロンを名乗り、お互い老齢となってからも長男を交えて親交があった。残念なことに彼女は昨年、病気で急逝した。86歳になったアラン・ドロンは引退後に脳卒中を患っていたが、今はスイスで療養しているという。時代は確実に流れた。

東京物語 感想

  • 藤野茂樹
  • E-mail
  • 2022/08/16 (Tue) 15:17:47
東京物語  感想 藤野

田舎町は日本中に数えきれないほどあるのに、親の住む町としてあえて尾道を選んでいる。
貧しく時代の波から取り残された場所としての尾道、そこに住む親、そして日本の先端を行
く東京、そこに住む子供たち。この対比で話が進む。
そして伝統を守り、礼儀作法を重んじ、緩やかな時間の流れの親世代に対して、多忙で合理的で金銭感覚の違う子供世代。
二つの世代を衝突させて、子供世代の自立そして親世代のこれでよかったのだというシーンへと導いていく。こういったところが世界共通で、時代を超えて支持されるのだと思う。

1. 子供たちが自立し親が置き去りにされていくような寂しさがある。
このことが世界共通で淡々と描かれているのがよいのだと思う。
周吉がろくにしゃべらないのがまたよい。
  
2. 周吉、服部、沼田が居酒屋で子供に対する不満と次第に離れていく寂しさを酒で紛らわすシーンがよい。
紀子の住むアパートのシーン。酒の貸し借り、あるんですね、この時代には。
このアパートは横浜の同潤会横浜平沼町アパートというのがネットで流れているが、真偽のほどはいかに。

「東京物語」を観て

  • 山口愛理
  • 2022/08/14 (Sun) 12:03:03

『東京物語』は若い頃、仲間と上映会を催したことがある思い出深い作品だ。横浜で会場を借り、フィルムを借りて、チケットや宣伝のポスターも手作りして臨んだ。同時開催した上映後の講演会は、『東京物語』制作当時に新人助監督だった高橋治氏にお願いした。高橋氏は助監督後に作家となり、『絢爛たる影絵 小津安二郎』という、監督や俳優のエピソードを満載した大変面白いノンフィクションノベルを書いている。上映会当時は『風の盆恋歌』という恋愛小説を出した直後で、後に直木賞作家となった。上映会は観客の入りも上々で、講演も大変面白かったと記憶している。
さて、『東京物語』について。この作品は海外でも非常に評価が高く、今でもその評価は下がらないらしい。その理由を考えてみた。
まず、独特のゆるく丁寧なトーンとローアングルのカメラワーク。登場人物が話している時は、その人物の顔のアップに切り替わり、それが繰り返される。この手法が以前からあったのかどうかわからないが、小津作品では多用されていて表情や話し方が強調される。また、畳文化という日本独自のものに、このローアングルが合っていて臨場感が増すのだ。
この映画では長女の志げのみがポンポンと物を言い、それ以外の人物は、子供を除いてみな面と向かって不満などを言わない。それが控えめな日本人のエキゾチズムと映るのか。だが、表面穏やかでも、大げさな演技は無くても、周吉役の笠智衆、妻のとみ役の東山千栄子の語りや表情で、観ている方は細やかな心の内を感じ取れる運びとなっている。そこが素晴らしい。また、戦死した次男の嫁、紀子役の原節子は、唯一思いやり深い人物として描かれ、派手な顔つきながら大和なでしこを体現している。
今の時代に一番そぐわないと感じたのは、東京見物の直前で仕事が入った医師の長男が、代わりに私が行きましょうかと言う妻に、「お前は家を見ていなければ」と諭すシーン。妻が案内するのが適切だと思ったので、家を見るって何だろうと、ここは理不尽に感じたし、初めから妻が同行しない予定だったのも今の時代からすると違和感があった。
好きな場面は、空気枕のことで老夫婦が話すシーン。お互い、相手が持っていると言いながら、結局夫が持っていた。その後の何気ない「ああ、ありましたか」の妻のセリフが良くて、長い穏やかな老夫婦の暮らしを感じられた。老夫婦がそれぞれ未亡人の紀子の今後を思いやるシーンも、良くしてくれた紀子への気持ちが溢れていて暖かい。
それと、やっぱりラストシーン。「今日も暑くなりそうだ」などと紀子と普通の会話をし、一人になった部屋で近所の婦人と窓越しに一言二言交わしてから夕暮れを迎える周吉役の笠智衆。妻がいなくなっても変わらず日常は続いていくのだという、寂寞感と滋味あふれるラストだ。

「ミリオンダラー・ベイビー」を観て

  • 山口愛理
  • 2022/07/17 (Sun) 11:44:09
『ミリオンダラー・ベイビー』2004年アメリカ 監督・音楽/クリント・イーストウッド

①この映画を課題に選んだ理由
アメリカ映画に関しては、SFXなどを駆使したハリウッド大作が私は苦手で、古い時代のアメリカン・ニューシネマや、ヒッチコック、ブライアン・デパルマ、マーティン・スコセッシなどの作品、そしてここ数年ではイーストウッド作品が趣味に合っていた。
彼の作品の中での好みは、一位『グラントリノ』、二位『ミスティックリバー』、三位『父親たちの星条旗』か『ミリオンダラー・ベイビー』。
課題に『ミリオンダラー・ベイビー』を選んだのは第77回アカデミー賞の作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞の4部門を受賞していることと、アマゾンプライムで無料視聴できるので、皆さん観やすいと思ったからだった。私は18年ほど前の公開当時に劇場で観たのだが、今回観直してみて、いやはや重い映画だったのだな、と再認識した。

➁あらすじ
昔カットマン(止血係)だったフランキー(クリント・イーストウッド)は、親友でかつてボクシング選手だったエディ(モーガン・フリーマン)の試合中、危険を感じながら中止できずに選手生命を終わらせてしまった苦い過去を持つ。今は雑用係のエディの助けを借りて寂れたボクシングジムを運営する老トレーナーとなったフランキーだが、過去の経験から慎重な試合しか組まず、有望な選手を大手ジムに奪われることが続く。
フランキーは娘と長く音信不通で、未開封のまま戻って来た手紙の束が山のようになっている。そんな頃、ジムにプロを目指して入門希望の31歳の女性マギー(ヒラリー・スワンク)がやってくる。何度も断るフランキーだったが、素質を見抜いたエディの助言もあり、入門を認める。彼女は頑固ながらもフランキーの教えは忠実に守り、徐々に頭角を現して勝ち続けついに敵なしとなる。成功した彼女は故郷のトレーラーハウスに住む家族に家をプレゼントするが、生活保護が打ち切られると冷たくあしらわれ落胆する。
背中にゲール語で「モ・クシュラ」と書かれたガウンをフランキーから贈られたマギーは、階級を上げ100万ドルのファイトマネーがかかった試合に臨む。相手は反則で有名なチャンピオン、ビリー。試合はマギーが優勢だったが、ラウンド終了後にパンチを出したビリーの反則により頸椎を損傷し、人工呼吸器が一生必要な全身不随の身となってしまう。
入院生活のマギーと、面倒を見るフランキーの間には実の親子以上の深い情愛が生まれる。だが金銭目当ての家族に見放され、夢も失った彼女はフランキーに安楽死を懇願するが断られ、舌を噛んで自殺を図る。自分らしく死にたいという彼女の決意を知ったフランキーは苦悩した末に生命維持装置をはずしアドレナリンを過剰投与する。「モ・クシュラ」とは、お前は私の血だという意味を伝えて。マギーは微笑みながら涙を流して息を引き取る。フランキーは二度とジムには戻らず行方知れずとなり、エディがその後を継いでいる。

③私の感想
私はもともとボクシングが好きなので『ロッキー』や『レイジング・ブル』などのボクシング映画も大好き。だから映画前半はマギーが困難を克服してプロを目指して頑張る姿が清々しかったし、サクセスストーリーの典型のような運びだと思った。が、後半ラスト近くになるとそのトーンは一気に変わる。「一女性のアメリカンドリーム実現」から「安楽死・尊厳死」へとテーマが変わったかに見える。実際この映画上映に反対する団体運動もあったようだ。が、イーストウッド自身はこのような考えを持っているわけではなく、あくまで前者のテーマで撮った映画だと語っている。
ヒラリー・スワンクの演技が素晴らしいと思った。貧しくまだ女性蔑視もあった頃に、夢の実現のために前向きに頑張る姿が素晴らしかったし、ボクシングシーンも迫力満点だった。足の運びをフランキーに習い、ウエイトレスの仕事中にもステップを踏む。後に病院で壊疽のため片足切断となってしまう時に、このシーンが思い出され切なかった。
ボクシングの試合で何度も映し出されるコーナーに椅子を置くシーン。それはある意味象徴的で、最後の試合でセコンドが雑に置いた横になった椅子に、マギーが首を打ち付けてしまうシーンにつながる。
全編を通してモーガン・フリーマンの抑えた演技が良い。表情や声が優しさや思いやりに満ち溢れている。それでいていざという時には強い。そして彼のナレーションは、画面には最後まで出てこないフランキーの娘にあてた言葉であることが最後にわかる。
マギーはただ人生に落胆したから死を選んだのではないと思う。彼女は与えられた運命の中でやれるだけのことをやった。華々しく輝いた最高の瞬間もあった。その記憶を大切にしたいからこそ、死を選ぶ=自分らしく生きる道を選択したのではないか。フランキーと心を通わせることができたのも大きいだろう。
しかし、彼女が選んだこの尊厳死という結果を、どう考えるかは非常に重い問題で軽々しく考えることはできない。尊厳死や安楽死は倫理に反すると理屈では言えるが、実際に自分の問題となった時にしか、それぞれの答えは出てこないものと思う。
イーストウッドの多くを語らない淡々とした画面作りが、この映画に合っていたと思うし、決して後味は良くないけれど、このように考えさせるラストがあったからこそアカデミー賞を取ったのだとも言えるのではないか。

④課題
1,印象に残ったシーンはどこですか。
2,病院でのマギーの心境と選択、このラストをどう思いますか。
以上のことを踏まえて、感想を自由にどうぞ。

「タクシードライバー」「レイジング・ブル」「レナードの朝」を観て

  • 阿王 陽子
  • 2022/08/11 (Thu) 21:19:49
少し前に発表でロバート・デ・ニーロ「マイ・インターン」を取り上げたさい、マイ・インターンはロバート・デ・ニーロの無駄遣いだ、との会員のかたからのご意見があったので、ロバート・デ・ニーロの作品を観ることにした。

私自身が繰り返し見ているのは、「恋におちて」と「ニューヨークニューヨーク」で、若きメリル・ストリープとの共演の不倫の恋を描いた「恋におちて」、また、大好きな女優ライザ・ミネリのミュージカルが散りばめられた「ニューヨークニューヨーク」は、いい意味でロバート・デ・ニーロは主役の女優の明るさや美しさ、艶やかさを引き立てるスパイスのようであり、また、ロバート・デ・ニーロらしくはない、作品である。

さて、お盆休み中の今回見たのは、「タクシードライバー」(初めて)「レイジング・ブル」(二回目)「レナードの朝」(二回目)の3作品である。

1976年の「タクシー・ドライバー」は、モヒカンスタイルの髪型はインパクトがあり、また、ハーヴェイ・カイテルやシビル・シェパードなどが脇を固め、かなり若き日のジョディ・フォスターが少女娼婦をとてもかわいく、無垢なまでに純粋に演じている。ここでのデ・ニーロは、帰還兵の社会への不安、妄想、不器用さ、狂気、正義感をよく表現している。

夜の街をタクシーで走りながら退廃的で快楽的なムードに苛立ちを感じる青年の内面的葛藤、そして対照的に昼間は秩序的伝統的な整理整頓された選挙事務局に焦点を当てて、そこで働くシビル・シェパード演ずるベッツィーに好意、これは憧れなのだろう、憧れを抱きデートに進展するが、デートでポルノを見せたため嫌われてしまう。内面的葛藤から、体を鍛え、政治家を狙うが未遂に終わり、知り合ったジョディ・フォスター演ずるアイリスを騙していいように使っている、ハーヴェイ・カイテル演ずるポン引きや仲間たちを始末する。

結果はマスコミからアイリスを組織から救い出したヒーローともちあげられ、前にふられていたベッツィーからも、最後タクシーに乗ってきて、話しかけられるのだが、彼の中ではもうベッツィーへの憧れは消えてしまっていた。

デ・ニーロは貧相なまでに痩せていて、青年の葛藤、衝動、不安、正義がけだるい夜の街のムードと混ざり合って、破裂する。
若さの象徴のようなデ・ニーロと、家出少女の無知さ、愛情に飢えている無垢なジョディ・フォスターは、1970年代を体現するベストカップルだった。

デ・ニーロはタクシードライバーを3週間体験して役作りをしたそうだが、そうした役作りの徹底さは、「レイジング・ブル」では伝説となった。

1980年の「レイジング・ブル」は実在するボクサーを演じたが、鍛えた肉体の前半と引退後クラブの支配人をした時の後半では体重が27キロぐらい差があり、デ・ニーロは役作りのため過食して増やした。近年シャーリーズ・セロンが「モンスター」の殺人鬼を演ずるために増量をしたが、その役作りの原点が、デ・ニーロによる役作りアプローチ、「デ・ニーロアプローチ」だった。

この「レイジング・ブル」ではボクサーの試合と、妻ビッキーへの執着、独占欲、嫉妬、猜疑心、ビッキーとの恋愛と結婚生活、そして関係の終わり、未成年少女を紹介した罪での投獄、そしてボクサーとしての過去の栄光を思い出す。ビッキーの役の女優が、ミア・ファローとキム・ノヴァクを足して2で割ったような美人で、このキャシー・モリアーティは私は知らなかったが、魅力あふれて蠱惑的だった。

筋肉質で巻毛の黒髪なロバート・デ・ニーロのジェイク・ラモッタは柔らかな肉質、細い線、美しい金髪のロングヘアのビッキーを際立たせる、どっしりとした存在感だった。

私が苦手な映画の「レナードの朝」のロバート・デ・ニーロは、「タクシードライバー」や「レナードの朝」「ニューヨークニューヨーク」で見るような暴力的な粗野な面ではなく、繊細で哀しい、もろい、はかない、壊れやすい、精神性を体現している。

1990年の「レナードの朝」は、脳炎患者、パーキンソン病、神経病が今より知られていない時代の、医師の試験的治療からくる目覚め、そして、悲しみ、生きる悲しみと人権を表している作品で、私はラストの内容が悲しくて、辛く感じてしまうのだが、レナード演じるデ・ニーロが患者にしか見えないし、またルーシー演じる女優さんをはじめ、病棟の患者役の役者さんが患者にしか見えない。ほのかに恋心が芽生えながら、悪化するけいれんから、自ら彼女に別れを告げ、彼女が帰るバスを見送り悲しむ姿に涙した。

ロバート・デ・ニーロの三作品を続けて見たが、どのデ・ニーロも、役を役と感じさせない精巧なリアルさがあり、徹底された精巧な役作りと、ロバート・デ・ニーロには、やはり人間のさまざまな面、さまざまな気持ち、心の機微を伝えたい純粋さが彼の根底にあるのではないか。

「マイ・インターン」はロバート・デ・ニーロ作品をこうやって見てみると、ややおとなしい好々爺であって、たしかに、ロバート・デ・ニーロにしては意外な作品であるかもしれないが、穏やかな性格の彼もまた、ロバート・デ・ニーロの仮面のひとつなのだろう。また、ロバート・デ・ニーロ作品を観たいと思った。
2022.8.11

「宗方姉妹」「お茶漬けの味」を観て

  • 阿王 陽子
  • 2022/08/08 (Mon) 19:12:44
小津安二郎をもっと知りたくなり、「宗方姉妹」「お茶漬けの味」を今回も字幕付きで観た。

「宗方姉妹」は田中絹代と高峰秀子が姉妹なのがなかなか年齢差があり対照的で、古風な考え方の田中絹代と現代的なおキャンな高峰秀子、田中絹代の相手役だった上原謙が思われる家具会社の男性役であるのだが、上原謙が未亡人とおそらく深い仲にあったであろう描写があり、田中絹代を思っている一途さが彼からは感じられず、なんだか上原謙が未亡人となってしまった田中絹代にアプローチするのも、しらじらしい感じに感じてしまい、「宗方姉妹」の作品はあまり良さが感じられなかった。また田中絹代の容色の老いが感じられ、あまり魅力を感じる雰囲気ではないのもこの作品が佳作ではない要因であるだろう。生意気な妹の高峰秀子のはつらつさが変に際立つ作品になっていた。私は「宗方姉妹」は失敗だったと感じた。

しかし、「お茶漬けの味」は実に素晴らしかった。インティメートでプリミティブなお茶漬けの味こそ夫婦なんだ、という佐分利信の男の色気と、有閑マダムな木暮実千代のケバケバシイ悪妻から改心して、かわいい妻に変身するラストがなかなか感動的で、観たあとで繰り返し佐分利信と木暮実千代のすれ違いから和解までのお茶漬けを作る展開が、お見合い結婚はこういう展開だったら幸せになれるんだなあと思い、バツイチの私はこの作品を参考に婚活できたら、と思った。

佐分利信という俳優の男の色気あふれる魅力が、この作品を素晴らしいものにしているし、また木暮実千代の見た目のコケットな奔放な妖婦のような雰囲気が悪妻だった前半を際立たせている。この妻は理想的なイメージの原節子ではできない役だっただろう。

実に感激したのが「お茶漬けの味」であった。
2022.8.8

小津安二郎監督「東京物語」感想

  • 石野夏実
  • E-mail
  • 2022/08/01 (Mon) 22:18:41
先日からもういちど観なければと思いながらも、後回しになっていた「東京物語」を日曜日を利用して観終わった。
昨年の1月に「わが青春に悔なし」(黒澤明監督1946年作品)を観ての感想をモノクロ作品ジャンルの方で掲載してもらっているが、その時に参考のため「東京物語」「晩春」「麦秋」(←これは途中まで)の「紀子3部作」をすでに観ていたのである。「麦秋」の残りも「東京物語」を観終わっての夜半に残りを少し観始めたが、最後まで観たいと思えなくてストップした。
パターンが似ているのである。
おそらくライバルであった黒澤明は小津より7歳ほど年下であるが、敗戦翌年の46年に原節子主演で「わが青春に悔なし」を公開している。参考になると思うのでこちらの原節子をぜひ観ていただきたい。
※黒澤のその後の初期作品は「酔いどれ天使」(48)「野良犬」(49)「羅生門」(50)、そして志村喬主演で「生きる」(52)である。
小津の方は、公開年代順で書くと「晩春」(1949)「麦秋」(1951)「東京物語」(1953)であるが、最後に作られた「東京物語」が内容に深みもあり一番完成度が高いと思えた。
有名なローポジション、カメラの固定撮影、相似形etcのスタイルは、すでに同じである。
小津作品は3部作しか観ていないのであるが、それらに関しての小津のテーマは「家族」「親子」であるのだろうが、果たして原節子(1920~2015)は、この三つの役を気に入っていたのであろうか。役を気に入る気に入らないは引退後は全く公の場に登場せず沈黙を守った幻の「女優」であるから、誰にも真相はわからないのであるが。。
私は香川京子には、箱入り娘東京の山の手のお嬢さんらしさを感じるけれど、原節子には、顔立ちが派手すぎて、特に口と鼻が大きいため、上品さを感じないのである。美しいけれど真っ赤な口紅を塗ってこそ映える口元だと思う。大きな体躯には洋装は似合うが、着物は似合わない。モダンで美しい彼女には、働く女性が相応しい。といっても終戦直後は、女性が働ける場所は限られている。学校の先生や秘書は、知的な職業の代表であったのだろう。原節子の職場はブリジストンのタイヤが置かれていたりマネキンがあったりで、どんな会社なのかよくわからなかったが、事務職であった。OLではなくBGと呼ばれていた時代のワーキングウーマンである。
時々原節子が見せる笑顔が止まった時の表情、隠された素顔の意味するものは、複雑なのだろう。女性ひとりで東京で生きていく厳しさ、今でも大変なのに70年近く前には、どれほど大変だったことか。

さて「東京物語」であるが、今は亡きそうそうたるメンバー揃いで、東山千榮子、杉村春子、山村聡、東野栄治郎、中村伸郎など、山村聡以外は俳優座、文学座の創立メンバーだ。
笠智衆は黒髪の「麦秋」での原節子の兄役よりも「東京物語」のお義父さん役の方がずっといい。公開年数でたった2年しか違わないのに、あの老け様に驚きであった。尾道の市役所で定年まで勤め上げた教育課の元課長で、温厚でごく普通の勤め人であった役はぴったりだった。戦争中は、家族はどうしていたんだろうと観ながら思った。
特に医者役の長男の山村総の家族は、中学生になったばかりの男の子が12歳だとしたらこの子は戦争中に生まれていたわけで、もう少し家族の歴史が知りたかった。原節子の戦死した夫のことも”いつどこで”がなくて、少し物足りなかった。
同じ親に育てられた兄弟姉妹でも、性格はずいぶん違うものである。杉村春子のちゃっかりを通り越した意地汚さは、杉村本人を嫌いになるほどにリアルであった。これを名演技というのだろう。
東山千榮子も上手である。「東京物語」は、役どころをがっちり押さえた俳優座と文学座の大御所オールスター大会でもあった。

熊本訛りが抜けなくて万年大部屋俳優の笠智衆を名優にしたのは小津安二郎だといわれている。朴訥なセリフ回しは大根役者そのものであるが、妙に味がある。黙っていれば絵になる名優は、それほど多くはいないと思う。

一番好きな場面は最初と最後の風景です。家々の屋根が連なる美しさと瀬戸内の穏やかな海。
尾道は何度か行ったことがある町ですが情緒のある坂の町です。
足を延ばして「鞆の浦」もいいですよ。

「麦秋」感想

  • 阿王 陽子
  • 2022/07/31 (Sun) 18:41:28
「東京物語」が薄れゆく家族の絆と悲哀、「晩春」が父と娘の離れがたい愛情と結婚について、をテーマにしているなら、この「麦秋」は、家族の団らんと結婚問題、家族の別れをテーマにしている。

笠智衆は本作では紀子(原節子)の兄、康一を演じている。髪が黒いので若く見える!

「麦秋」の紀子は28歳。未婚で、嫁に行くことをもちかけられる。

原節子のタイピングの手元がテキトーな打ち方だったが(笑)、まあ、そこを見る映画ではないから良しとして、原は本作でも抜群に美しかった。また友人役の淡島千景が可愛くて、生き生きとしていた。若い。

ただ、気になったのはやはり現代との違和感だろう。

康一が紀子の結婚相手が40歳なので、28歳の「紀子の年齢では贅沢は言えない」と、言うのだが、なんだか違和感を感じた。

ひとまわり差の夫婦、恋人はざらにいるではないか。現代だとそうでも当時では違ったのかと認識した。

また、女友だちが言う、「未婚者に権利なし」も、いまはセクハラになってしまう禁句であるだろう。

紀子三部作をいっきに観て、笠智衆の老け役、原節子の類まれな美しさが印象深い。
また、「晩春」と「麦秋」は北鎌倉を舞台にしているが、文学的、歴史的な鎌倉のイメージが、小津映画の情感豊かな描写を引き出させている。

三部作で、斉藤高順、伊藤宣二らの、優しくせつない音楽が流れていたが、現代のうるさいBGMと比べて、とても素敵だと感じた。

8月は小津安二郎、黒澤明映画(これも父から借りた)、そして、ロバート・デ・ニーロ(「マイ・インターン」のまとめとして)予定である。
2022.7.31

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