「ミリオンダラー・ベイビー」を観て

  • 山口愛理
  • 2022/07/17 (Sun) 11:44:09
『ミリオンダラー・ベイビー』2004年アメリカ 監督・音楽/クリント・イーストウッド

①この映画を課題に選んだ理由
アメリカ映画に関しては、SFXなどを駆使したハリウッド大作が私は苦手で、古い時代のアメリカン・ニューシネマや、ヒッチコック、ブライアン・デパルマ、マーティン・スコセッシなどの作品、そしてここ数年ではイーストウッド作品が趣味に合っていた。
彼の作品の中での好みは、一位『グラントリノ』、二位『ミスティックリバー』、三位『父親たちの星条旗』か『ミリオンダラー・ベイビー』。
課題に『ミリオンダラー・ベイビー』を選んだのは第77回アカデミー賞の作品賞・監督賞・主演女優賞・助演男優賞の4部門を受賞していることと、アマゾンプライムで無料視聴できるので、皆さん観やすいと思ったからだった。私は18年ほど前の公開当時に劇場で観たのだが、今回観直してみて、いやはや重い映画だったのだな、と再認識した。

➁あらすじ
昔カットマン(止血係)だったフランキー(クリント・イーストウッド)は、親友でかつてボクシング選手だったエディ(モーガン・フリーマン)の試合中、危険を感じながら中止できずに選手生命を終わらせてしまった苦い過去を持つ。今は雑用係のエディの助けを借りて寂れたボクシングジムを運営する老トレーナーとなったフランキーだが、過去の経験から慎重な試合しか組まず、有望な選手を大手ジムに奪われることが続く。
フランキーは娘と長く音信不通で、未開封のまま戻って来た手紙の束が山のようになっている。そんな頃、ジムにプロを目指して入門希望の31歳の女性マギー(ヒラリー・スワンク)がやってくる。何度も断るフランキーだったが、素質を見抜いたエディの助言もあり、入門を認める。彼女は頑固ながらもフランキーの教えは忠実に守り、徐々に頭角を現して勝ち続けついに敵なしとなる。成功した彼女は故郷のトレーラーハウスに住む家族に家をプレゼントするが、生活保護が打ち切られると冷たくあしらわれ落胆する。
背中にゲール語で「モ・クシュラ」と書かれたガウンをフランキーから贈られたマギーは、階級を上げ100万ドルのファイトマネーがかかった試合に臨む。相手は反則で有名なチャンピオン、ビリー。試合はマギーが優勢だったが、ラウンド終了後にパンチを出したビリーの反則により頸椎を損傷し、人工呼吸器が一生必要な全身不随の身となってしまう。
入院生活のマギーと、面倒を見るフランキーの間には実の親子以上の深い情愛が生まれる。だが金銭目当ての家族に見放され、夢も失った彼女はフランキーに安楽死を懇願するが断られ、舌を噛んで自殺を図る。自分らしく死にたいという彼女の決意を知ったフランキーは苦悩した末に生命維持装置をはずしアドレナリンを過剰投与する。「モ・クシュラ」とは、お前は私の血だという意味を伝えて。マギーは微笑みながら涙を流して息を引き取る。フランキーは二度とジムには戻らず行方知れずとなり、エディがその後を継いでいる。

③私の感想
私はもともとボクシングが好きなので『ロッキー』や『レイジング・ブル』などのボクシング映画も大好き。だから映画前半はマギーが困難を克服してプロを目指して頑張る姿が清々しかったし、サクセスストーリーの典型のような運びだと思った。が、後半ラスト近くになるとそのトーンは一気に変わる。「一女性のアメリカンドリーム実現」から「安楽死・尊厳死」へとテーマが変わったかに見える。実際この映画上映に反対する団体運動もあったようだ。が、イーストウッド自身はこのような考えを持っているわけではなく、あくまで前者のテーマで撮った映画だと語っている。
ヒラリー・スワンクの演技が素晴らしいと思った。貧しくまだ女性蔑視もあった頃に、夢の実現のために前向きに頑張る姿が素晴らしかったし、ボクシングシーンも迫力満点だった。足の運びをフランキーに習い、ウエイトレスの仕事中にもステップを踏む。後に病院で壊疽のため片足切断となってしまう時に、このシーンが思い出され切なかった。
ボクシングの試合で何度も映し出されるコーナーに椅子を置くシーン。それはある意味象徴的で、最後の試合でセコンドが雑に置いた横になった椅子に、マギーが首を打ち付けてしまうシーンにつながる。
全編を通してモーガン・フリーマンの抑えた演技が良い。表情や声が優しさや思いやりに満ち溢れている。それでいていざという時には強い。そして彼のナレーションは、画面には最後まで出てこないフランキーの娘にあてた言葉であることが最後にわかる。
マギーはただ人生に落胆したから死を選んだのではないと思う。彼女は与えられた運命の中でやれるだけのことをやった。華々しく輝いた最高の瞬間もあった。その記憶を大切にしたいからこそ、死を選ぶ=自分らしく生きる道を選択したのではないか。フランキーと心を通わせることができたのも大きいだろう。
しかし、彼女が選んだこの尊厳死という結果を、どう考えるかは非常に重い問題で軽々しく考えることはできない。尊厳死や安楽死は倫理に反すると理屈では言えるが、実際に自分の問題となった時にしか、それぞれの答えは出てこないものと思う。
イーストウッドの多くを語らない淡々とした画面作りが、この映画に合っていたと思うし、決して後味は良くないけれど、このように考えさせるラストがあったからこそアカデミー賞を取ったのだとも言えるのではないか。

④課題
1,印象に残ったシーンはどこですか。
2,病院でのマギーの心境と選択、このラストをどう思いますか。
以上のことを踏まえて、感想を自由にどうぞ。

Re: 「ミリオンダラー・ベイビー」を観て

  • 藤野茂樹
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  • 2022/08/12 (Fri) 15:23:41
ミリオンダラーベイビー 感想 藤野

1. 伏線と回収 この作品はフランキーとエディ、マギーと母親、エディとフランキーといった伏線がいくつも見られ、上手に回収されていきました。
2. 作品が大きく二つに分かれていること。前半がロッキーを思わせるボクサーのサクセスストーリーで後半が安楽死問題でした。後半が重いために前半の面白さが吹き飛んでしまいました。
3. 残念に思ったことは、安楽死問題を観客に突きつけ、「答えが出ないだろう、我々の答えはこうだと、感傷的なシーンを並べ呼吸器を外したこと」
この映画に出てくる病院には精神科医、心理学者等は出てこず、絶望する患者を助ける努力をしていない。この患者は、同じように呼吸ができずに、手足が動かない患者は全米に多数いるのに、コミュニケ―ションとろうとした形跡がない。眼以外は動かない、唇しか動かない、舌しか動かない人は世界中に今や多数いる。公開時の2004年には
すでにパソコンで患者同士が連絡を取り合うことができた。自分が診たことのある福井県の患者が、目だけを動かしてインターネットで連絡を取り合っていたのだから。
また、時代が進めば、別の解決もあるかもしれないし、別の生き方もできるかもしれないと精神科医なら慰めるだろう。実際2022年に彼女が生きていたなら、もう一度ボクシングができただろう。メタバースの世界でアバターを使って。

「ミリオンダラー・ベイビー」感想

  • 藤原芳明
  • E-mail
  • 2022/07/26 (Tue) 12:09:13
1.イーストウッド作品について
 初めてイーストウッド監督の『バード(1988)』を観たとき、これが『夕陽のガンマン(正・続)』や『ダーティハリー』シリーズで名高い、あのアクション俳優が監督した作品なのかと驚いた記憶がある。後にイーストウッドがジャズ狂であることを知ったが、それにしても暗く悲劇的な題材を扱った優れた映画だった。(酒とドラッグに溺れ34歳の若さで死んだ天才アルト・サックス奏者<バード>ことチャーリー・パーカーの伝記物語) このとき小生は、イーストウッドが俳優業の片手間に映画監督をしているのではないことを認識した。
 以降、イーストウッドの監督作品はほぼ全作観てきた(『クライ・マッチョ(2021)』は未見)。これだけ多作でありながら、しかも作品ごとに題材・テーマ、キャスティング(本人が出演する場合は別)を変え、なおかつこれだけの秀作、傑作ぞろいとは脱帽するほかない。持ち込まれる企画、脚本の中から、いい映画になるものを見分ける嗅覚、映画人としてのセンスが抜群なのだろう。そして、あえて大作を避け、自分のペースを守っている。作品を予算内で短期間に撮りきることでも有名。
 小生のとくに印象に残ったイーストウッド作品は以下のとおり(公開順)。『許されざる者(1992)』、『ミスティック・リバー(2003)』、『ミリオンダラー・ベイビー(2004)』、『グラン・トリノ(2008)』
 
2.『ミリオンダラー・ベイビー』について
(1)疑似的親子(父娘)
 フランキー(クリント・イーストウッド)は過去に、娘ケイティ(とおそらくその母アニー)に対し、娘が決して許さないような何か酷い仕打ちをしたらしい。彼はそのことを生涯悔いている。彼は長い間絶縁状態にある娘のために毎朝カソリック教会のミサに通い(フランキーはアイルランド系でカソリック)、就寝前には娘のために祈る。
マギー(ヒラリー・スワンク)は、ただひとり自分に優しかった父が死んでからは、自分達のことしか考えない母親や妹(その夫)達に食い物にされている。
 フランキーとマギーは、それぞれの人生で失った大切なもの(娘と父親)の代償をお互いに求めあい、疑似的な親子(父娘)のような感情を通わせてゆく。

 イーストウッド作品には、血のつながった実の親子において良好な関係を築けない主人公たちが、別の対象との間に、親子に似た関係を結んでゆく、この疑似的親子のテーマが繰り返し描かれる。小生の記憶では、その定型例は『パーフェクト・ワールド(1993)』だろう。他人の子ども(男の子)を人質にした脱獄犯(ケビン・コスナー)が逃亡中、その少年と交わす親子に近い心の交流を描いている。本作『ミリオンダラー・ベイビー』もそうだし、『グラン・トリノ』でもたしか頑固おやじである主人公(イーストウッド)とモン族の青年との間に、親子に近い感情があったように記憶する。

(2)印象に残ったシーン【課題1、2】
 映画の中盤、車の中でマギーがフランキーに自分の思い出を語るシーンがある。かつて飼って可愛がっていたシェパード犬(アクセル)が、ケガか病気で前脚だけしか動かせなくなり、犬らしく走れなくなったとき、マギーの父が森に連れて行ってアクセルを殺したエピソードだ。これが尊厳死の暗喩(あんゆ)となりストーリー最後の重要な伏線となる。
 病院でマギーとフランキーが以下の会話をする場面、そして最後の夜、フランキーがマギーにキスをし、生命維持装置を外して致死量のアドレナリンを注入する場面は、尊厳死という非常に重いテーマがあることを承知のうえで、やはり何度観ても感動的だ。小生にはこの場面が、哀切を極めた父娘のラブシーンにみえた。

マギーは、自分は自分の「生」と十分闘った、その満足と誇りを持ったまま死にたい、父がアクセルにしたことを自分にしてくれとフランキーに訴える。

フランキー「俺にはできない、お願いだ、そんなことを俺に頼まないでくれ(
I can’t … Please … don’t ask me.)」
マギー「お願いよ(あなたにしてほしいの)(I’m asking.)」
 
(3)映画のラスト【課題2】
 本作の余韻を残すラストは素晴らしく、付け加えるものは何もない。ただ、蛇足として想像すれば、エディ(モーガン・フリーマン)が送った手紙(それがナレーションの中身だった)を読んだフランキーの娘ケイティが、ためらいながらエディに連絡してくる、そしてそれがフランキーとの和解の糸口になる‥そんな後日談をふと思った。

(4)その他、音楽について
 本作では音楽をイーストウッド本人が担当している。エンドロールで流れる印象的なピアノとギター曲「Blue Morgan」はイーストウッド自身の作曲らしい。この曲を聴きながら、『ディアハンター』のエンドロールで流れる哀愁のギター曲「カヴァティーナ」を思い出した。

3.尊厳死を扱った映画
 小生が観た映画のなかで尊厳死を正面から扱ったものとしては、ハビエル・バルデムが、事故で首から下が不随の寝たきりになった主人公を演じた『海を飛ぶ夢(2004)』がある。実話にもとづく物語とのことだった。興味のある方はご覧ください。

「ミリオンダラー・ベイビー」を観て

  • 清水 伸子
  • 2022/07/19 (Tue) 21:09:40
心を揺さぶられる映画でした。
ヒラリー・スワンクの演技がすばらしくて、マギーの芯の強さ善良さなど人間としての魅力を体現していたと思う。もちろんクラント・イーストウッドとモーガン・フリーマンも見事で、この三人の間に通い合う深い感情のやりとりが心に残っています。

課題①
印象に残ったのは、半身不随になった後、マギーが「自分が不注意だったから」というようなことを話すシーンです。自分の行動にあくまで責任を持って生きてきた彼女ならではの言葉だと感じました。

課題②
私はマギーの選択と最終的にフランキーも彼女の望みを受け入れて尊厳死させるというラストは辛いけれど必然の流れだと感じました。


(投稿前に、内容をプレビューして確認できます)